市房山神宮里宮の由緒

市房山神宮里宮の創建は、昭和9年(1934年)ですが、その由緒は古いものがあります。

「市房山神宮 本宮(上写真)」は、市房山の中腹4合目になり参拝が容易ではありませんでした。
日本では古くから神仏習合で、神社には別当寺という付属の寺院が建立され、僧侶が神事を司ることもありました。

市房山神宮の別当寺は、最初湯山にありましたが、永正3年(1511年)、岩野に移され普門寺と号しました。しかし天正10年(1582)に住僧盛誉が殺害された猫寺騒動で無住の寺となった。

その後、慶長9年(1604)に僧頼真によって普門寺は湯前城の旧跡に再興され、相良氏から江戸時代を通して球磨郡内の寺院で再興の石高460石を給されました。

この普門寺に市房山神宮の遥拝所が設けられ人々の参拝が容易となりまし。
しかし明治5年(1872年)、普門寺は廃寺となり、単に遥拝所となりましたが、明治16年(1883年)6月5日火災によって全焼しました。

46年後の昭和4年(1929年)、遥拝所跡地に里宮建立の機運が高まり、昭和6年(1931年)2月、県から神社建設の許可を得て、建設開始。昭和9年に完成しました。

神殿(6坪)・幣殿(6坪)・拝殿(20坪)・社務所(36坪)等総経費3万5千円の計画で、湯前村(現湯前町)は、村費から1万5千円を支出し、球磨郡内全24町村(当時)から6千円の寄付を求め、その他氏子及び篤志家の寄付によるものとされました。
昭和6年11月工事開始、昭和9年(1934年)11月竣工し、4月28日に落成式が行われた。

当時里宮神社の境内は旧湯前城で、戦国時代東三河守直政の居城でした。永録2年(1559年)相良氏18代義陽の重臣丸目頼美と東長兄の対立から起こり郡内を二分して戦ったうそ野原合戦で三河守直政は丸目方につき敗北して落城しました。

その後文禄3年(1594)湯前の地頭であった竹下監物父子は、相良氏20代長毎に反し湯前城で切腹を命じられました。

このように長い歴史を持ちます・・・

里宮神社の由緒
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